縄文のある風景

古里の四季折々に、ゆったりと流れていたであろう「縄文」に思いを重ねて

決めつけ!

 ぼーっと、TVの音を聴いていたら、「マイルドヤンキー」という言葉が飛び込んできた。どういう意味合いをもつ「こ・と・ば」なのだろうか?。フム~。

 どうも人間というもの、何かをジャンル分けにしないと安心できないのだろうか。定義そのものに、疑義・不安を感じる。

 昔から ? とするものに、左翼・右翼がある。様々な人たちの定義を聞いても、釈然としない。神様(全能と仮定しての)ではない人間が、一面だけで決めつけることは不可能ではないのか、というのが釈然としないことへの大きな理由だ。

 例えば「あいつは~だから左翼だ」「右翼のくせに・・・」云々。何を根拠にしているのだろうか。聞いてみたい気もするが、恐らく、私には理解不能となるだろう。この世に、「法的定義」を除き、「これはこうだ!」と定義できるものは「ない!」と、信じるからである。昔傾倒した太宰治の「(真理らしく思えるものは)ただ一切は過ぎていきます・・・」ということが、案外と、人間そのものを言いあらわしているのではなかろうか。

 

 最近は特に、「言霊(ことだま)」に重要な関心を寄せている。

 大昔は超心理学に興味を持っていた。それ以前、例えば齢15~6の時には「精神分析入門(フロイト)」に出会い、「これは私のためにある本」という、傲慢とも取れる感想を持ったが、考察を進めるうちに、「幽霊とは」に、シフトし、超心理の世界に入っていった。伏線の一つは、母と姉の不可思議な能力であり、そばで見ていた私自身の”妙”な力である。この件については、いずれ、項を改めて記述するかもしれない。

 で、何故「言霊」から?であるが、言葉の乱れは、精神の荒廃と思えるからである。暇な人は調べてみればわかるかも。きちんとした言葉遣い、なかんずく、「言霊」を有している人達と、言葉を弄ぶ人たちとの違いを。

 

  大和言葉・日本語・・・大事にしよう