縄文のある風景

古里の四季折々に、ゆったりと流れていたであろう「縄文」に思いを重ねて

小休止

 雨に付きです。11時前早めの食事を摂り(この家ではブランチ)、買い物へ。野良仕事もできないので、食料の買い出しです。「何食うだ~」です。これといった物が浮かびません。野菜は地元産が主体。これは、地産地消と言うことではなく「身土不二」に基づいています。所謂「己が存在する所のエネルギー」をそのまま受けると言うことです。

 現在日本には、世界中の食物があふれています。しかしよく考えてみましょう。

 例えば「バナナ」。アレは熱帯地域の植物で、効用は「熱取り」。それを、極端に言って、エスキモー・イヌイットの人達が食べたらどうなるのでしょう。

 「旬」とは、その時期にあった食べ物と言うことではないでしょうか。それが今では蔑ろにされ、夏の代表であり熱を取る「キウリ」に至っては、一年中店頭に陳列されている始末。

 変だと思わない方が「変」です。私の持論は「食べたい物を食べる。心ゆくまで」です。が、体との相談が不可、脳との連絡不可のヒトには不可能です。小さくして肥満児となっている人達を時々見受けますが、これは、恐らく「親の子不幸」です。肥満児の親と称される人達は、恐らく、食べ物に対して、無頓着でしょう。因みに、前の住所で時折悪食(外食をこう呼んでいます)するとき観察したのですが、とあるドーナツ屋の前に並ぶ人の9割がファットマン(ウーマン)という記憶が残ってます。

 

 「食わねば死ぬ」。確かにそうです。大概の人は・・・。でもネ、と考える習慣を付けてみませんか?常識がどの程度か私は良く理解はできていませんが、「今までが全て正しい」とは、限りませんよ。特に、これからは・・・。

 

    縄文人は地球のエネルギーをそのまま受けていた。

        それが「身土不二」。 

             人工エネルギーは必要なし。