縄文のある風景

古里の四季折々に、ゆったりと流れていたであろう「縄文」に思いを重ねて

お呼ばれ?

 法事ダスた

 結婚式と葬儀、法事。招待状が必要な時と、必要でない時。いつ、誰が決めたのでしょう。

 今日は、使いの者(招待状ではなく、法事を行う家の誰かが、各戸にお願い)から、「12時半から法事を行うので、出席して下さい」とのお言葉。了解して、出席準備。いつもの宮司と、見慣れた人達。先月亡くなった方の「50日祭」と「忌明けの儀」でした。忌明けについて神道(当地)では、50年祭の翌日執り行うそうなのですが、家族の都合で、当日執行。神葬祭の、二礼二拍手一礼、の有りようが違ってきます。先ず、50日祭時には「忍び手=拍手(かしわで)するも音は立てず」、その後の「忌明けの儀」では、音付き拍手。多分に、「50日祭とは、残された者達のお祭り、忌明けとは、死した者がその家の守り神と成る、との思想から来ているものと、推察します。

 法事終了後、宮司の説明が面白かったので、メモしておきましょう。要旨は次の通り。

・・・50日祭とは、死後50日経って行うと言うことではない。人間、一番の悲しみは、親しき者との永遠の別れである。悲しんで、悲しんで、気が枯れるほどである。この、「気枯れ」が鈍って、「穢れ」となる。神道では、この「穢れ」が取れる時期を、仮に50日祭としている。従って、「穢れ」が無くなる時期に、残された者が「(自分流)50日祭」を行えばよい。それは、死後一日でも、100日でも、一向に構わない。現に、「未だ、気枯れから抜け出せません」と、申し出る人達もいる。・・・

 以前、50年祭の時期についての説明「50年祭とは、もうこれで十分、又は、これ以上、祭りを行う余力はありません」と、思われる時期に執り行う、に通じます。神道の「穢れ」については他にもありますが、本日は、宮司の説明要旨にて終了です。

 

              縄文人の祭祀は?