縄文のある風景

古里の四季折々に、ゆったりと流れていたであろう「縄文」に思いを重ねて

宿題の答え「気づき」

 でした(今月27日ブログ参照)

 午前中、カンコロ購入のため北の方へ。目的地の近くで、同行した叔母(道案内ダス)の同級生と遭遇。「何処行こ~っとかな~」「ディたい」。ディ・・・ディケアのこと。行くのが余程楽しいのでしょう。満面の笑みで答えてくれました。こちらも、ほっこりと。現地到着後、暫し農作物状況を観察。あそこは、私達みたいな家庭菜園ではありません。草取り、植え方、育て方・・・、どれ一つとっても、手抜きがないようです。「ば~ら~(=感嘆詞・まあ~)、草ん一本も生えとらん。」が、自然に出てきました。無論、猪対策は、万全のようです。

 で、ディケア。冒頭の「気づき」です。今月27日のブログ「つかみ」の宿題の答えが出たようです。

 「実は・・・」と話し始めた旦那様、ディケアに通い始めて、人の優しさを学んだとか。やはり、優しくなければいけないな~と、気付いたそうです。家族から優しくされるのは当たり前、でも・・・、「他人からの優しさは」と、思ったのでしょうか。それにしても、米寿間近での「気づき」、すばらしいの一言です。

 以前、現役の頃、後輩への指導の中に「気付かせなさい」と、幾度か織り込んだことがあります。何回注意しても「本人の気づき」が無い以上、修正するのは困難だとする結論を持っていたからです。

 「気づき」は、資質なのでしょうか、努力なのでしょうか。それとも、教育?

 

         縄文人、明日が雨なら晴耕雨読