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縄文のある風景

古里の四季折々に、ゆったりと流れていたであろう「縄文」に思いを重ねて

プチ断食雑感

 週末断食をこう表現します

 週に一回、体調を整えるための断食を、3年程前から実施しています。但し、年間を通じて行っているわけではなく、思いつきと表現した方が正確でしょうか。お陰様で、ぽっこりお腹はいつの間にかへこんだようで、息子の嫁さんから「太鼓腹だったのに・・・」と、評価(?)されたようです。その他は、色々と感じはしましたが、今年からの一番の感覚ーそれは、「明日、食事出来る」という、単純ですが、大事そうなことです。

 縄文の頃から、人間は、食うや食わずの状態であったとかで、空腹時の処置は、体が覚えていると思われます。従って、何日か、食物を取り入れなくてもそうそうたいしたことには成らないはずです。ただ、断食時に感じる事、それは、強制された不食(食べたくても食べ物が無い又は制限されている状態)と、体が納得する断食とは大きく違うと言う事でしょうか。強制的不食には、欲求とのせめぎ合いがあるようですが、断食には、それがありません。体と、精神が一致しているからでしょう。

 従って、食事したいという意味ではない「明日の食事が楽しみ」と成るのですが、同時に、「食べる事ができる」「食べる物がある」という普段、意識しない事に注意がいきます。これは、今年に入って(3回実施)から、特に感じている事です。家庭菜園が一つの要因でしょうか。もし、断食に興味のある方には、十分と、体と議論してから始める事をお勧めします。

 少しかじりついた量子力学分野では、どうやら”霊主体従”的側面がある(宗教的ではなく意識先行という意味で)ようで、例えば、「モノは、”観察”がなければ存在しない」とも言われているようです。意識というものをコントロールする事で、断食効果は大いに期待出来るかも知れません 因みに、断食後の味覚は鋭敏です。

 

     縄文人は、強制不食だったのダ