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縄文のある風景

古里の四季折々に、ゆったりと流れていたであろう「縄文」に思いを重ねて

贅沢と、反省と・・・

 とある思いが・・・

 家庭菜園をやっていますと、色々と、考える事が出てきます。

 その最たるものが、「ありがたさ」です。スーパーマーケット等で販売されている品物は”生産者の顔”が見える事が良い、とされているようです。何事か。即ち、安心して食出来るかどうかの事でしょう。この点、家庭菜園は全てが(種子の出所は問わない事で)、自分流。それも、作物の成長に合わせて、随時その命を戴く事が出来る事です(食事前の「戴きます」は、「貴方の命を戴きます」との事)。

 家庭菜園開始時は、有りがたさが大きかったのですが、最近、つとに、その「有りがたさ」が薄れてきている気がします。これは、人間の”慣れ”という、心理的負担軽減作用を体現しているのでしょう。

 「有り難さ」を忘れた時、人は、「知足」をも忘却の彼方へと追い出していくのでしょうネ。悲しい事です。現に、ワダスは、自家製野菜を食する事が当たり前になっている所為か、少々、感謝を放り投げています。ここに書き込む事で、逃げてはいけませんが、十分な反省をしている事を宣言します。

 実際、新鮮野菜を食する事は、”贅沢”の一語です。その”贅沢”を、これからも、「有り難く」享受していきます。

 

     縄文人は、有り難や有り難やの毎日