縄文のある風景

古里の四季折々に、ゆったりと流れていたであろう「縄文」に思いを重ねて

宴の後

 帰島人はそれぞれの居住地へ

 毎年の事ながら、一抹の寂しさは隠せません。此は、恐らく、体験しないと実感出来ないでしょう。ワダス自身が、「ここ」に来て、初めて実感することです。

 この世に生を受け、長じて、家族を形成。此を、永遠に続けていくことで、人類は発展してきました。晩年は又、子・孫・ひ孫・・・と囲まれての大往生。このことを繰り返しながらの人類史。悠久の人類史の中の一コマと思えば、宜なるかな・・・、ダス。

 又もや集落に静寂が。毎年のこととはいえ、残されし身には応えます。いや、「残されし」との表現は適当では有りません。「残っている」のですから。「人はその地で咲けば良し。ただ、古里は忘れまじ。」ということにしましょうか。親などと言う立場、中々、・・・・・・・ダス。

 

     縄文人、明日からは椿との格闘か?