縄文のある風景

古里の四季折々に、ゆったりと流れていたであろう「縄文」に思いを重ねて

水無月・季夏

 農業に適するは、大陰暦

 ふむ、現代人は季節感に乏しくなるのでしょうか。6月の異称を水無月・季夏(きか)と称するらしいのですが、ただ単に、文学的表現としか捉えてないようです。私は、現実感に乏しい異称と捉えます。

 縄文人は、季節を肌で感じ、特別に「今は、こうなのだ!!」という意識は無かったと思います。自然の移り変わりに己を合わせていく、つまりは、自然と一体化していく作業です。

 現代はどうなのでしょう。冷暖房が完備されていないと「ブーイング」。外出すれば熱中症。帰宅したら手洗いうがいetc、と「清潔感」が前面に。過保護の心身(敢えて)が、様々な事件を惹起していきます。夏は思いっきり汗をかき、冬は天突き体操(古!)等で体を温め免疫力を高めていく・・・それで良いはずなのでするが。因みに、「過度に清潔な環境が子供の白血病の殆ど(99%)を作り出しているー英国テレグラフ報道(by In Deep)」とか。縄文人の一日の糞量は、現代人の4倍とも。糞量は食物だけではなく、腸内細菌とのバランスが重要とは、よく知られていること。縄文人は、”洗わない手”で食べ物を摂っていたのでしょう。

 暦を陰暦に戻すか、季語等を書き換えていくかしませんと、心身共にピシッとしない様な気もします。間違った健康志向に弊害有り!!!ダス。

 草刈り用ヒモを午後からゲット。帰宅後一枚の放棄畑を刈り上げ。途中、叔父の帰宅(リハビリデイ)に立ち会う。何でも「あんな~、週に2回通うちばい」「あら~、いつ、気の変わるとじゃろ」・・・。

 

     明日も草爺、孫の声変わりが何故か嬉しく