縄文のある風景

古里の四季折々に、ゆったりと流れていたであろう「縄文」に思いを重ねて

転生があるならば・・・

 つまり、今ある人間が、誰かの生まれ変わりとするならば、ということ。

 

 もしかしたら、前世を引きずっているのかもしれない。40年ほど前、「何故、人は過ちを犯すのか」と考えたことがある。その時は「遙か昔、全宇宙で罪を犯した者どもの流刑地が地球」と、結論づけた。「地球での生活は、所謂、禊ぎであり、ある、”気づき”を我がものとするまで、地球での輪廻転生を繰り返すことを余儀なくされる。」とした。

 

 何故に、40年前を・・・、それは、今の、私の心境そのものであるからだ。

 若しかしたら(つまり、転生があるならば)私の前世は、非人間的詐欺師に近かったのではなかろうか。TVドラマや映画を見るとき、詐欺・脅迫、つまりは、私の考える「人間としての禁忌」を超えるモノを目にするとき、(役者の方々には申し訳ないが、それを演じる人に対し)殺意を覚える。で、「私は若しかしたらこのような人々と同じではなかったろうか」と。カカにも時折そのことを話している。

 であれば、昇華するためにも、乗り越えるしかあるまい。ナー二、「乗り越えられない運命なんて有りはしない(ン、どこかで聞いた様な・・・)だろうから。また、家康公による「人の一生は、重荷を背負うていくがごとし、急ぐべからず・・・」にみるまでもなく、慌てることもあるまい。

 

         人生はサーフィンか