縄文のある風景

古里の四季折々に、ゆったりと流れていたであろう「縄文」に思いを重ねて

7回忌法要

 今日は、伯母の7回忌法要でした。

 午前10時過ぎから、本家の叔母と三人で榎津にあるお寺まで。叔父は、参加を拒否し、リハビリへ(一日中ゴロゴロしてたら、意欲も失せるでしょうに・・・と、呟いてみます)。法事を主催する従姉妹(伯母の息子の嫁)一家からは、従姉妹の長女夫婦と長男。都合、七人での法事で、些か、寂しい気もしました。寺の本堂は何回も行っており目新しくは無かったのですが、暑さ対策は「大型扇風機」のみ。ただ、かなりの空間があったので、さほどの暑さは感じませんでした。一応、上着は着用していましたが。

 葬儀・法事を神式で行うことが多いため、仏式での諸式との違いに「ウ~ム」と、成ることが結構あります。

 例えば、時間。仏式長過ぎ(宗門的問題もあるのでしょうが、せめて、ご詠歌は一曲にして下され)。

 例えば、費用。かなりの開きがあります(どちらがどちらか考察の程を)。

 例えば、法要後の接待。坊さん、飲み食い+食事お持ち帰り。神主、ちょい食事・・・後は、主催者の気持ち次第。

 本日は、法要の後、坊さんを含めた食事会(これ、若しかしたら定例かもです)。食前・食後のおいのり(?)などを経て解散。途中、本家の叔母「こん人んとこは、昔、寺から破門されたっですよ。金ば払えんかったけん。」

 そうなんですよ、地獄の沙汰も金次第と言いますが、これでは「宗教とは・・・」と、考えざるを得ません。私の立場は、所謂、既製宗教ではありませんので、全宗教を、公平に俯瞰出来ます。直近で地球規模のパラダイムシフトが起こりそうなので、若しかしたら、各々宗教の欺瞞性等が顕著になることでしょう。特に、某戦争屋に思い切り使われている「統一学会」など。

   

    縄文人の宗教は「一所懸命生きること」だったのでは?